今日は一日中ダメだった。
怒り狂って人に当たりそうなのはなんとか耐えて無言で過ごせた。
やっとブログが書けるような状態になった。
今までやったもの
歩く 腕立て伏せ
少し調子がよくなった。
やはり運動が自分の調子を良くする。ただし歩くのは慣れてきたせいかダメだ、明日からは走る。
気持ちが落ち込んだときは、やたらと負の連鎖が起こる。
嫌なことを思い出したり、自分を痛めつけたり良くないことばかりだ。
そいうときは何かのせいにする、雨のせい、疲れてるせい、生活の乱れ、それでもイライラするなら運動か睡眠だ。
何なんだろう、怒りはよくない、どこから来るのだろう、急に、怒りにムカつく。
そいう怒りのメカニズムを理解するのに時間が掛かる。
怒りは放置か、運動で紛らわす。
無意識のうちに何かをやってしまったり、主義主張が変わったり、そういった生理が他人にも自分にも常に巻き起こってるならば、せめて自分だけでも余裕をもって、日々構えてなければならない。
一つ一つ何かを理解するのは、人から教わって自分で理解するための前段階として心体が健康でないとダメだとおもう。
機嫌が悪いから今日は勉強しないなんてことが日々あったら、理解することをずるずると引き摺ってしまう。
これは他人にも自分にも言えること、これから話を「教える、教わる立場」ということにフォーカスする。
自分はよく他人の言ってることが理解できない、例えば「スピーカーのそこ持って、」と言われるしよう。
どこなのかわからない、恥ずかしいことに。取ってが付いてる部分なのか、底なのか、一方の手で別々のところを持つのか。
なんでできないのとか、なんでお前はできないと言われたことがフラッシュバックしてくる。
このとき重要なのは教える側は怒らないこと、怒って相手の意欲を削ぐのはよくない、訊いて怒られるだったらやめようと思ってしまう。そいうメンタルでもある。
最初は分からなくて当たり前なのだ、また抽象的なこと(自分にとって。他人には具体的かもしれない)を理解する力が自分にはない、学習能力、反復がない。
そんな気持ちを引き摺ってまた同じことをやってしまう。
また今度は教える側が誠意をもって教えたとしても、教わる側が理解に努めなければ意味がない。
これがどいう仕組みで成り立っているかを、自分で考えることも大事。
また相手の立場になることも大事。
難しいけど、それらって自分にとって知らないこと、苦手なこと理解するときっていうのは、
なにか嫌悪感みたいなものが働いてしまって、できない=自分は理解できないというの気持ちになってしまうんだとおもう。
これは教えるほうにも問題があるのかもしれない。その人に怒られるのが嫌だといった生理的な問題もあるし、
教わる側の積極的な自立した理解がなければ知識、知恵の教授というのは難しい。
教えてもらったら体に染み込むまで反復。
また理不尽なのか、相手が正しいのかわからないときもある、あとから考えれば考察はできる。
段々とタイプというのも分かる。性格と内容、自分の意欲を天秤にかけ、日々教わり、教えコミュニケーションする。
心体のバランスを日々保ち、生きる。それが自分の目標。
それでもやっぱり難しい。まずは走って。
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