自由とは「人生の選択肢の数」でしかない
哲学者の鷲田清一さんが、
「極と極の間に、自由というのはある」
という趣旨のことを著書の中で言っています。さんざん極端な生き方をしてきた僕としても、これは確かだと思います。
自由というのはあくまで「生き方の幅」です。
あなたが想像できる自由は、想像の範囲内でしかないのです。想像を超えたものは想像できません。
そのなかで「こうしたい」と思ったことが、どれだけ出来るかが自由か不自由かの分岐点ということです。
けれども、選択肢の数がどんなに増えても、内面的なところで躓く人は多いのではないでしょうか。
仏教には「四門出遊」という有名なエピソードがあります。
あるとき、若いブッダが外出しようと城の門から出ようとしたら、東・南・西・北それぞれの門に、老人・病人・死人・修行僧がいて、「生の苦しみ」を目の当たりにしたのです。
逃れられない不自由さ。
ブッダにとってそれが、「老」「病」「死」というものになりました。
以降、彼は出家の意志を持つようになったとされています。
複数の「友だちの輪」を移動してみる
この「檻を移動する自由」というのが、「平凡な自由」につながると思います。
このやり方は、宗教などの「修行してナンボ」の世界では、逃げと見なされて否定されるでしょう。
彼らの中では「その檻から出る」ことが重要なのですから。
けれども、僕たちは実際にはそこまでできませんし、そんな人ばかりだと社会が成り立ちません。
「檻」の移動は、SNS(ソーシャルネットワークサービス)によって、より簡単になってきていると思います。
いろいろなSNSが乱立していますが、そうしたものを「保険のための檻」と考えればいいのです。
ただ、今、あまりにSNSに頼り切って疲れてしまう、「SNS疲れ」というものも、よく耳にするようになりました。
そうして疲れてしまう人は、自分のかかわりの中だけでSNSのコミュニティを広げてしまいがちです。
そうすると、新しい「檻」を作ったとしても、中身は自分を知っている人だらけなので、まったく意味がない。
むしろ、どの「檻」に行っても自分を誰かが知っていたり、息苦しさから別の「檻」に行ったとしても、「檻」同士がつながっている、ということもありえます。
自分で思う以上に、意外とSNSって狭いんです。
SNSを使わない人が集う「檻」もあるはずです。「檻」を移動するなら、「檻」の種類自体を変えたほうがいいということです。
素直に「さみしい」と言っていい
社会性やコミュニケーション能力というと、なにか難しく思えます。
自分はおもしろい話ができない、嫌われてしまうのではないか、笑われるのではないか、自分みたいな人間が……いろいろな理由で一人になっている人がいると思います。
そういう人のために、人付き合いのコツを教えましょう。
1つめは、素直になることです。
2つめは、人を否定しないことです。
Kは、一緒に食事をしているとき、たまに少しお酒に酔って、
「自分はいい人間になりたいんだ。優しい人間になりたいんだ。誰かを助けたいんだ」
と漏らすことがありました。
そういう正直さを見て、僕は、これはなにか尊いものだと感じていました。
前向きな面と後ろ向きな面、どちらが本当のその人の姿なのか、それを問うのはあまり意味がないことです。その両方、まるごとその人なのです。
片方の自分だけが本物だと思ってしまうことが不自由のはじまりです。
だから、どちらの自分も、気にせず出してしまえばいいのです。
裏表がない人というのは、そういうタイプの人で、他人にとっては案外つき合いやすいのです。
「素直な自分はネガティヴで邪悪だ」という人は、それでもいいのです。
ただし、2つめの「人を否定しない」というのを思い出してください。
この2つさえ守っていればいいのです。
しかし、仲良くなっても相手に依存してはいけません。
それは自由とは逆の行為です。
馬鹿に見られるくらいでちょうどいい
だけど、それがあまりにも恐怖すぎて、「このままでは、もう人前で喋れなくなってしまう」と思いました。
そのうちに似たような依頼が来たんですが、そのとき、「もう、逆に……やろう」と思ったんです。
もうあのとき以上にひどいことはないだろうと。それに、ちゃんと準備すればいいんじゃないかと思ったんですね。
結局、その次の機会は、カンペみたいなものを作ってそれを棒読みしながらなんとか乗り切りました。
とても成功とは言えませんが、初回があまりにひどかったので、それでも「なんとかなった!」と思えました。
それからも人前で話すことを繰り返して、たぶん20回目くらいで、やっと少し慣れました。
そのときに気づいたんですが、「これを言ったらだめだ……」とか「頭がよく見えるように話さなくては……」とか、そういう自意識は捨てたほうが良い結果が出ています。
むしろ「好き勝手に馬鹿なことを言う。それで見限られるならしょうがない」と開き直るほうが上手くいくようです。
中学生のときに、生徒会とか、スピーチとか、ああいう人前で話すことをやっていた人は凄いなあと思います。
でも、逆に、今となっては大したことなかったんだな、とも気づいたんです。
自転車の練習と一緒なんですよ。「慣れなんだな、これ」と思いました。
結局、みんな、数回しかやってないから怖いんです。周りの目が気になるっていうのは、慣れていないだけです。
元陸上選手の為末大さんが『「遊ぶ」が勝ち』という本のなかで、「仮面を被って街に出たことがある」という話をしています。
仮面をかぶると、みんながこちらを見るんだけど、視線が気にならない。
それまでは他人の視線が凄く気になっていた為末さんは、それ以来、勝負顔というものを意図的に作るようになったそうです。
自分の顔を「仮面」にすることで他者の視線から自由になる、ということです。
Kはすぐに実行に移しました。
あくまで自分は別の人間だと言い聞かせつつ、クラブに行って、人の眼を気にしないように趣味のジャグリングをやってみたそうです。
そうするとやはりジャグリングに夢中になって、あまり周りが気にならなかったようで、しばらく自信を取りもどしたよう
では、そうした議論の結論はどうなるのか。
だいたいにおいて結論はありません。結論を出すのが目的ではないからです。ただ議論を尽くして、最終的に意見を調整する。そういうことです。
そこで指針となるのがコミュニティ内の美徳というものです。
美徳は道徳とも倫理ともちがいます。極端なことを言えば、ヤクザのコミュニティでは、「筋を通す」とか「メンツ」とかいったものが大切です。
筋を通すために人を殺したり、メンツのためにあえて不利益を被ったりする。
これは社会の道徳とも個人の倫理ともちがいます。そのコミュニティの中だけのルールです。
道徳と倫理を擦り合わせるところに、そのときどきに現れる答え、それが美徳です。
このような社会の中で自由を追究するのは、非常に難しくなってきています。
自殺対策支援センター ライフリンク」の統計データを見ると、98年から突然自殺者が増えています。
それまで2万人ちょっとだったのが突然3万人──いきなり年間8000人も増えたのです。
もっと厳密にわかっているんですが、98年の3月から突然増えたんです。
いろいろな説がありますが、有力なのは前年の銀行・証券会社倒産などによる社会状況の悪化、失業率の増加です。
98年の前年、97年は銀行や証券会社の倒産、これらのあおりで失業率が増加した年です。
僕は最初にこのデータを見たとき不思議な気持ちになりました。
社会状況というよくわからないものが、8000人もの人の命を左右している。
確率的な死。
それはまるで見えない爆弾のようです。
Kは、目には見えない、確率的な爆弾によって自由を奪われ、死んだのではないか。
社会状況の悪化の中心では失業や破産を苦に死んだ人たちがいる。その周縁のいちばん外側にたまたまいたのがKだったのかもしれない。
そんなふうに思うんです。
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