2017年11月30日木曜日

疲れ

今日一日疲れていた。

今日までたくさん仕事したし、音楽活動もしていた。
疲れは目の疲れからくる、目の疲れで大分やられる。
原因はネットやスマホだろう。少し控えよう。
控えた時に見える景色もあるだろう。
学ぶ環境や気持ちを切り替える事柄を逐一チェックしなくてはいけない。
自分の気分を変えられるか。
原因さえ分かれば簡単だし、あとは実行すればいい。
思ったより、なんだこんなことかって思う、また知らないことも多すぎる。


路上の防寒対策が進化しつつある。
まず風を通さない素材であることが第一、靴も。
暖かい靴でない場合、足先にカイロを忍ばせる。冷え性には冬は堪えるので助かる。
サンダルで来ている諸君もいたが大丈夫かと思う。
長期的に見れば、暖かい靴を買ったほうがいいだろう。また冷え込みが増した時は手がかじかむのでろくに手が動かない。
手袋も必須だ、弦楽器の場合手袋をはめて演奏すると素材が動物繊維だったりすると余計なミュートがかかってしまい演奏どころではなくなる。
なのでゴムの工具用の手袋でできたらなと思う。巷ではオーダーするとギターに適した手袋がある。いずれまた。
また変な人に絡まれると危険なのでいつでも逃げ出せる機材環境を作らないといけない。
自分の場合はスピーカーなどかさむものが多いので手間取ることもある。
酔っ払いの男の人が多い気がする、何気無いヘイトもどうでもいい。
コミュニケーションが一方通行、それでも相手はそうしたかったのだろうと想像する。
もっと黙らせるくらいの表現力が欲しい。


今日みたいに疲れてるとaiでもなんでもいいから早く文明が発達して仕事してくれと思う。
人間は仕事から逃れられないというのを何かで見た。
アホな生き物だと思う。
自分の場合は傍を楽にする。

退屈から何かを生み出す。仕事も遊びも。

明日はどこか行きたい、歌いたい。叩きたい。

2017年11月23日木曜日

勉強

頭のいい人はすぐ解決策を出す。

思えば子供の頃から知識人みたいな同級生は皆、情報量多くても、パニックにならないなと思っていた。

今、形成された知識

・音読み……
昔の中国の発音をもとにした読みで、聞いただけでは意味がわからないものが多い。
・訓読み……
漢字の意味を表す日本語の読みで、聞いただけでも意味がわかるものが多い。

ふと音読み訓読みの違いを疑問に思った。
多分最近本を読んでいて古文とか漢字とか言葉に興味が出たからだろう。
そうすると英語も学ぶか〜とかぼんやり思い始めて、書き取りとかめんどくさいから英語の歌だけ聴いて満足したりして。

近郊のイベントを調べてみると夜間学校の説明会とかがあって驚いて、また学んでみたいな〜とぼんやり思った。
今更だけど、子供の頃行っていた監獄みたいな学校には行きたくないし、いろんなことが錯綜しすぎて授業どころではなかった。
ほとんど思い出せないのだけれど、なぜ自分が勉強しなかったとか考えるとそいう部分にあった。という言い訳。

何故という部分を今更考える、そして自分なり解決策や答えを出す。
他人に頼ってもいいんだけど、なるべく一人で出した方が深みのようなものが出ると思う。

ただやっぱり思い出せない、自分がなぜ勉強しなかったのか。
単純に嫌いだったんだろう。考えたり自分なりの答えを出すというのが苦手だった。
競争みたいな部分もあるし、向上の先に目的があればいいけど。
皆よくやっていたなと思う、ゲームみたいな気分でやっていたのかな勉強。
いやでも惰性で勉強してた人とかいるのかな、まぁいるのかもしれないな。
目的はあった人もいただろうし。

自分は本当に何をしていたのかあまり思い出せない。
ボーっとしていたような気もする。
あと東京に行きたいな〜とぼんやり思っていた。
そうすれば話の合う人もいるし希望もあった。

あとやっぱりいろんなものの表現を体感させてもらえたのは大きかった。
その広大な深淵な世界観に思い耽っていた。
音楽を音楽というよりかはその世界観の中に、入り込む体験・・・
フリージャズや舞踊、フォーク、プログレ、様々な複雑な表現を音楽基礎や芸の基礎みたいなものを知る前に体感したのはマズかったのではないか。
抽象的なものを具体的に言語化する技術がないし、他人に伝えられない。
表面的なものを感じようとしていたかもしれない、直感的。

音楽は聴く人を選ぶし、音楽によってそいう細部の部分の違いを楽しむ価値観に果てがないということ。勝負のような部分もある。どこかで自分の答えを出す。
常識とか個人によっても恐ろしく価値観が違うので、混沌としている。
何より好きでやっているんだから。

全てを論理的に説明できるわけがないけど、小泉文夫さんという方のラジオをyoutubeで聴くと勉強になります。芸大ではこいうことが学べるのか〜と思ったりした。

ただ自分のやりたいことを見失わないようにする。
最近は、今日はもう音楽できなかった。したくなかった。無だった。
これから考えられるのは音楽は自分にとって気分的なものだし自制できるような代物でもない。
もう疲れた。
ただたまに自分の音楽が必要とされたり役に立ったりする時があるのかもしれない、今自分にすぐできることはギターだし話が早い。
たまにさ、役立ったりするんだ。ある程度自分の目標とする技術力は惰性感を出しつつ練習する。
好きなものに関しては結果よりも過程が大事だと思ってる。
やっぱり気持ち的に好きなこと、ポジティブな気持ちでやれたらいい。


最近はもっとフラットな方向というか多少主観はあるけど、もっと気軽に自分がいてもいなくてもいい場を作りたいなと思っている。めんどくさがりだし責任も嫌いだけど、誰もやらないからやりたいと本気で思ってる。
よかったら遊んでください。
ジャムセッションもそれだと密かに思ってる。分からないことも多いけど、そんな混沌ができたらいい。自分はそれをやりたい。

そのために必要な勉強はする。またそれが自分にとって楽しいし好きだ。

あと自立した幸せっていうのを具体的に捉えに行ってる。
もう少しでいけそうな気がしてる。

あ〜疲れた、カラオケ行きたい。




2017年11月20日月曜日

涙と最近

無知の涙を読んだ。

もっと早く出会っていれば、見方が変わっただろう。だが、今読んだから見える景色がある。
どれだけ知識を詰め込んでも、趣向で知識を選択してしまう、ということが書いてあるのが自分の中に残っている。
なぜなら、今あわよくば趣向、性格を変えたいと願っているからだ。
これは知識を取り入れたからといって、良し悪しは分からないということにもなる。
著者は殺人したことで自らを肯定している、それは刑務所に入り字を、文法を、思想、主義を学んだからだ。
自問自答し、様々な意味を自分と社会に見出した。
「今なら生きている意義もはっきりとわかる」というのも印象的だった。

読む進めていくうちに他の本からの引用や、最終学問としての哲学と倫理、唯物論、実存主義、プロレタリア、社会主義、資本論と言った言葉が印象的。
また弁証法という言葉、これは前に読んだ本を読む本(C.V. ドーレン とモーティマー・アドラー)にも出てきた。

弁証法
べんしょうほう
dialectic; Dialektikギリシア語の dialektikē technēに由来し,
対話術,問答術を意味する。アリストテレスによれば,エレアゼノンが弁証法の創始者とされるが,彼は「多」と「運動」の実在性を主張する論理の矛盾を一種の帰謬法によって明らかにした。ソクラテスは対話術を広く活用し,論者の意見や思惟の矛盾をつき,事実の概念的把握を試み,真知の究明を目指し,プラトンは真実在たるイデアにいたる思索上の方法としてこれを積極的に利用し,アリストテレスは論理学の一部門として学問的に位置づけた。近世では,カントは弁証法に独自な意味を与えて消極視したが,フィヒテを経てヘーゲルにいたると,全学問の方法的基礎として重視され,マルクス,エンゲルス唯物弁証法に発展した。

本を読む本に出てきた技法を全てできるわけではないが、探求したい物事にはなるべく力を注ぎたい。

だが前に、上にと向上していこうとすると、技術に捉われて無機質で機械的な意識で取り組むようになっている。
そうではなくてバランスで、自然さと不自然さを同居させる。

このタイミングでテレビでプロフェッショナルという番組で過労死の特集をしている。
労災、労働基準、過労を強いられる立場と取り巻く社会。
これらは無知から来るのではないか、何かの掛け違いで辛くなってしまう。

「こんなに素敵な仕事なのに毎日心をくたくたにするのはおかしい」という女性の発言。
涙を流し、切実な様子だった。
社会は競争を迫って来る。だが相性があり、選択肢が我々にはある。
自分はこの身を持って生き方を一つ提示できたら参考にしてもらいたい。

資本主義、社会主義の言葉が浮かぶ。
まだ理解できてないので、色々言えない。多分そこに意味があると思う。
オープンソース、勉強しよう。


最近はなるべく目を疲れさせないようにしている。
積極的に眼鏡は外すし、眠くなったらすぐ寝るようにしている。
そして食事の時間帯も規則的なリズムにしてみた。
そうすると、不思議と睡眠時間のリズムが出来上がってきて最低でも22時には眠れる。
といってもつい0時になってしまう、これでもいい方。
おかけで疲れにくくなってきた。暴飲暴食、寝不足、過労に気をつける。

今日も生きた、よくやった。過剰だが自分を褒めるのも大事。誰より自分が自分をいたわるべき。

メモ
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2017年11月14日火曜日

かつてない魂の軌跡

今、無知の涙(著:永山則夫)という本を読んでいる。

著者は殺人を犯したことで徹底的に社会と自己の関わりを見つめ直す。
その見つめた悩みの数々が決して、著者だけのものではなく自分のことだと言われている気がする。
無知から来る感情や出来事に対して、著者が練った答えを出しているさまは説得力がある。

諦めや達観の心情と混沌が渦巻く心情の中を行ったり来たりしながら、不安定な波の中に自分も感情移入してしまう。
今普通に生活している裏側に、闇がある。
光があるところに闇があるように、付き纏うものなんだと分かる。
見ないふりなのか、ただ単に知らないだけなのか、自分にはその先に死があるような気もするが、分からない。

だってまだこの世には凄いことがあるって知っているから、未練のようなものかもしれない。
まだまだ、足掻いて足掻くしかないよ。このように自分は楽天家である。
と同時に全てを抱え切れるわけではないと自己中心的になる。
分からないことが多すぎる。社会に対し、他人に対し不平不満があれど自分はそれに対し解決できてるか、また疑問だ。誰かに対し何かを言うこともできないし認知し、理論で分かっていても生きてる以上は勝手にぶつかり合ってしまう。
ただ毎日少しずつ、社会に対して自分がなんとなく進んでいるのではないかと思う。
今まで見えなかった景色や、自分が脱皮していく感覚に出会えてよかったと思う。
不安はまだ尽きない。

人は毎日違うものに興味をし、不安定なものだとかいてあった気がする。


印象的だったのは、夢幻、知は力(フランシスベーコン)といった言葉。
フランシスベーコンは前、田中泯さんが言っていたので印象にあった。


これを機に資本主義や社会主義を見つめ直したい、自分の著者同様、無知であるから。



永山 則夫(ながやま のりお、1949年6月27日 - 1997年8月1日)は、1968年から1969年にかけて連続ピストル射殺事件警察庁広域重要指定108号事件)を引き起こした刑死者(元死刑囚)である。北海道網走市生まれ。明治大学付属中野高等学校定時制中退。
1969年の逮捕から1997年の死刑執行までの間、獄中で創作活動を続けた小説家でもあった。1983年、小説『木橋(きはし)』で第19回新日本文学賞を受賞。


2017年11月6日月曜日

根拠のない自信。

何かも整合性があるものを目指すべきか。
よく分からない、とにかくがむしゃらに突っ走ることで行動できるかわかn

変わっていく自分と社会 理解

日々変わっていく自分の心と周りの人に対する理解。

曖昧な日常、ふわっとした何かがあるということに対して自分なりの解決を求めて本を読んだ。
常識、教養、心に何が必要なのか、問いかけた。
まだほとんど解決には至っていない、だが自分なりに進んでいるという手応えがある。
その中で最近興味があるのが、老いと人ということだ。

確実に老いが延長線上にあることを肌で感じ始めた。
今まで関わってくれた人の言動が少し理解できる気がした。ポジティブなイメージ。
物事は表裏一体、だが、今は前に進める気がする。

これから先も生きていくために、必要なこと。
生きなきゃとかそいう切迫詰まった感じでも無い、それは自分がこの時代、環境、そしてたまたま日本に生まれついたから。それ以外の苦しみは到底抱えきれない。
たまたま目にしていない、目にしたくないことがこの世にはある。
目にしたらどうなるのだろうか。いつの日かまた打ちのめされるだろう。

戦後、生きていくために人々は必死だった。
そんなエネルギーを引き摺った昭和、高度経済成長とともにあった団塊の世代の表現を見た。
凄まじさ、寂しさ、黒いアンダーグラウンド。
埃が混じった情景が浮かぶような空間を感じた。
その延長線上に、あらゆる音楽、文化があり自分も恩恵を受けている。
無数の人々が作り、今もなお表現している、とても素晴らしいことだ。
そいうエネルギーとは別に、普遍的な表現も存在しているとも思う。時代ごとに違う。わかんないけど。
まだ知らないことに埋もれた悲惨なことも無限にある、違う価値観も。
全てを知ることはできない。この世は混沌としているようで心持ちで様変わりする。

必ず死ぬ時はやってくるので、それを意識する。
過程はいろんなことがある、それはまぁ時に比べられたりもするけど、度合いによって差があるので自分中心で物事を捉えるのがいい、まぁバランスで自分:他人50:50ぐらいで良いと思う。

あらゆる苦しみからの解放の先に自殺があるとするならば、もったいないと思う。
まだ世の中には知らないこと、自分と気があう人、環境もあると思う。
せっかくだし恋愛、バンド、思ったように喋ったり、生きたりすればいい。
生涯1億人と話せば考えも変わるはず、と自戒を込めて言いたい。
出会いは不思議だ、縁が結んでくれる。運もある、けどなるべく求めたい。
たまたますれ違っているだけでいつの日か、巡り会えたらいい。
何年先になるのかな、例えば自分が何かを作って死んだ後に聴かれて影響を与えられたらと思うとロマンチックだ。死者からのメッセージ。
古い盤を聴くとそう思う、もうこの世にはいない人の景色が浮かび上がってくるのだから。恐ろしいことのような気もする、違和感。

音楽は裏付けで、音楽が魔法であるかどうかは基礎と裏付けにあると思う。
温故知新のように、様々なことが技術的な面では全て出揃っているのでそこを抑えるようにしたい。途方もないが、普遍的なものはすでにある、それでいて今をすぐ捉えられるようにしたい。日常を乗り越え麻薬のような音楽に手を染める。

無限に学ぶことがあるならば、無限の中にもまた自分がいる。
無限を覗き込む時、無限もまた自分を覗き込んでいるのだ。
何かを求め、選ぶと同時に自分も選ばれる立場にいる。
不特定多数に向き合うのも生き方だけど、特定のものに向き合うのもいい。
ただお金は保証できない。
歴史と教訓、今あるものを駆使して生きる。

話は変わって、相手を褒めることは難しい。
迂闊にいいとか言えない、建て前は平和にコミュニケーションするには便利かもしれない。常識なのかもしれない。
褒めることは、いろんな知識、経験を使う。日々の積み重ねが相手を分かる秘訣だ。

このように日々勉強している、今まで分からなかった音楽や、日常のあれこれが分かるようになってきた。

最近は怒りについて勉強していて、あぁそうかこいうこともあると受け流せるようになった。
怒りは危ない、いつもすぐ側にいる。一番いいのは怒りのある環境にいないことだ。
モヤモヤをいつもどうするか自分に問いかける。





2017年11月1日水曜日

怒りをどうやって回避するか

今日は怒らないことという本を読んだ。
著者はアルボムッレ・スマナサーラさんという方です。

この本から教えてもらったこと
・怒りは無知からくる
・怒りを認識し、観察することで原因がわかる
・怒りはエゴの制約によって生み出される

徹底的に怒らない、またそれは我慢であってはならない。
なぜなら我慢したら内側に怒りが残ったままだから。
大事なのは、今怒りが発生したと認識すること。そこから自分の声に対し怒りを抜くこと。
怒りは弱者の虚勢だとも言える。

現状を受け入れエゴを捨てる、卑屈、自身過剰であってもならない。
自分と向き合って怒りではなく「問題」を捉え、智慧で他人とコミュニケーションする。
「自分で気づかない根本の気持ち」と「自分で気付いてる気持ち」に矛盾が少ないほど正直者。
そして笑うことが重要。

仏教徒のモットーとしてノコギリの譬えという説法があって、それは強烈だった。
殺されても怒るなということだ、なぜなら怒りはそれぐらい猛毒で伝染してしまうから。
また地獄行き。
この話を見たときは、大丈夫かとも思ったけどそれほど生きるために信仰していたんだろう。天国と地獄、幸福と不幸を天秤にかけいつの時代も求めている。

今日も、自分は怒りを発生させてしまった。気付いたときはもう遅かった。
素早く現状を認知する力と智慧がなければ、怒らないことを実践するのは難しい。
ただ日常の簡単な怒りには対処できるようになった。
今日は怒りのあとに時間を経て認知した。
怒りは無知からくる、確かにそうだ、現状周回遅れの知識足らずのスタートでも何とか頭巡らして怒らないこと=問題解決するべく生きる。

そのために日常の細かい部分を把握するべく、意識して生活しないといけない。
たまになんで怒っているのかが分からなくなるから注意。
そいう場合はいかに自分が怒りを放置している可能性がある。
日常の怠惰に身を任せ、問題解決を先送りにしている。


やること多すぎる〜

自分のやること
本の整理 服の整理 使わないスマホの活用法 機材の活用法 曲制作 断捨離 スマホのいろんな同期 社会の常識の擦り合わせ やらなくていいことはやらない ライブ スケジュールの把握 やりたいことを把握する 話し方 機材の修理 読書 練習 スピーカーの修理 ライブの場所 人と出会う 実りあるものにしたい 

スッキリしたけどあぁ疲れた。