一体なにがどうなっているんだ?と毎日自分に問いかけている。
コロナ、人間関係、社会生活のこと。
情報の波に溺れて考えたこと、「真実は確かめようがない。確かめる時間も余力もない。」
だから限られた選択肢を選ぶことしかできない、無限のようで有限。
FFのキャラクターもこんなことを言っていた気がする。
眠れないから、朝4時くらいに家を出るようにしている。散歩して明け方の時間帯が好きだったなと思い出した。
夏の明け方の気温は涼しくて秋みたい、自分が夏なのに避暑地にいるみたいな優越感に浸れる。
歩きながら街で酔い潰れている人達を見た、朝見る酔っ払いは浄化されている気がして新鮮。
学生のころ朝、部活に行くときの澄み渡る気持ちを忘れていた、日光と風を感じること、空を見ること。
どこまでも行けるイメージを持てる。
今と昔で違うのは、年をとったこと、目が悪くなったこと。
そんな世界を感じながら共有できるひとは、これからどんどん少なくなっていく。
だから、長いお別れの準備だ。親族とも、いずれは別れる。
そうなったら自分は1人になるのだろうか、そうなったらそうなったでいつまでも別れていった人達のことを胸に、心に住まわせて、刻み生きていくのだろう。
1人だけど、独りじゃないよ。
未来も、過去も、今にぶつける。まだ終わってないから。
人生はゲームや(なのか?)苛立ちがドアをたたく
楽しい感動する方向に行く
穿った見方をしない
音楽をやる理由は3つある、気持ちよくなるため、過去と今と未来を行き来するため、品源との関わりを持つため
眠るには寝ないこと 音声を非出力して片方は音声出力 ジャズは歌謡曲
常識と教養はいつどこでどうやって身につけるのか?またそれを普通と判断できるのは?
(例えばカレーの話をするときに排泄物の話をして、汚さを実感としてどこまでイメージできるのか?)
(例えばカレーの話をするときに排泄物の話をして、汚さを実感としてどこまでイメージできるのか?)
https://kyoko-np.net/2017103001.html
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