2017年12月4日月曜日

相対化した物事

歩くと思考が整理される。

優先するもの以外、淘汰されていく、ぐちゃぐちゃなものが川のように溶けて流れていく。
それでもたた漫然と忘れていく。
何か考えているのか、自分が自分でいるのか不安なのでとにかく歩いたり何かないかと焦ったり、何もしなかったりのサイクル。
何か色々解決、決断したと覚えているが、忘れた。
何かを主張したいような気もする。
主張で思い出した。

言葉でどんどん主張したほうがいい。
何をするにしても、言葉がコミュニケーションの壁となる。
特に何を言ってるか分からない人に対しては問題。自分の知識が足りないせいもある。
あと年長者に対しての場合、言葉や技術は経験から敵わない(この言葉が適切か疑問)。
なので一生懸命、自分なりにこねくり回した理論を相手にぶつけるしかない。
自分の場合、これは否定されることが多い。それでも自分だけの正義と傲慢さを持たなければ社会はやっていけない(たまに)。
通じ合えないと思ったら逃げの一手だが、なるべく理解し合える相手とは共有できるよう日頃から知識を得るようにしたり、本番一発の場合一生懸命やるしかない。それでダメだったらもうダメだ。
人間それくらいのもんだと思って諦めたり、俺はこれぐらいしかできないんだと思うこと、大事。

先日、高校生のライブを見てきた。
その親御さんも見に来ており、親の心情を思うと涙が出てきた。
純朴な表現を見ると、これから社会に荒波に揉まれる(この言葉は好きではない)のかと思うと辛くなってくる。
中学生高校生辺りはもう目にするだけ辛くなってくる。
しかし人によっては学生のあとの方が生きる時間は長いので、ここからが本番だ。
そのための準備を自分はしてない、できないと分かったので修正すべく奮闘している。
あの頃からもっと勉強していればと思うと、後悔もある。
皆なんであんな錯綜している場所で勉強できたのかと思うと凄いと思う。狂気の沙汰だ。

しかし今の方がずっと面白い。音楽稼業に曲りなりにも携わってるし、音楽がなかったら今より腐敗した生活になっていたかもしれない。
表現があったからこんなことになってしまったのかもしれないけど。ときに自分の全てをさらけ出すことが表現には必要なのかもしれない、蒸発とかそいうことではない。



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