2026年9月25日金曜日

何もかもが運動



Toyama Michiko

配信者 発信することが、特別じゃなくなった。
もはや「自己表現しないほうがマイノリティ」になった。 視聴者はもう「エンタメを受け取る側」じゃない
→ 配信者と一緒に物語を作る“共演者”のような立ち位置になっている 発信することが、特別じゃなくなった。ネットはもう「居場所」じゃない。
むしろ、見張られている“監視社会”に近づいている。発信はもはや、「何かを伝えたい人」だけのものじゃない。

● 発信する“僕たち”自身が、時代の消費者になっている

気づけば、僕たちは発信しているようで、
ただ「時代に発信させられてる」だけかもしれない。

流行に乗り、テンプレートに従い、
“ウケる話し方”を身につけ、
“バズるコンテンツ”を真似していく。

「自由に発信してるつもりが、いつのまにか“誰かの正解”を演じていた」

そんな皮肉な構図が、もう当たり前になってしまっている。

**「発信している自分でいたい人」**のものになった。

それは否定されるべきことじゃない。
ただ、そこにある**“ズレ”**には、目を向けておきたい。

● 発信の時代は、ある種のディストピアかもしれない

この社会では、誰もが監視し、誰もが晒されている。
ちょっとした失言で燃えるし、ネットが法廷よりも強くなることだってある。

「誰でも発信できる時代」って、聞こえはいい。
でもその実態は、「誰もが発信せざるを得ない時代」なのかもしれない。

そう考えると、配信文化の行き着く先は、「個性の戦場」であり、「承認の戦争」だ。
そしてそれは同時に、誰かに気づかれないまま終わっていく、名もなき孤独たちの墓場でもある。

でも、僕はまだ言葉を発信し続けると思う

なぜなら、発信とは「孤独の告白」であり、
それを言語化することこそ、僕にできる最も誠実な行為だと思うから。

もはや「自己表現しないほうがマイノリティ」になった。

アニメのつまらなさ 年を取ると日々の生活の中での出来事に新鮮さがなくなる新鮮さがなくなると、体がその出来事に慣れてしまい、記憶をしなくなる。【インターネットが原因】知らず知らずのうちに膨大な量の情報をインプットしてしまっている。ドラマや音楽でも「間」や余韻を楽しめなくなってきている影響かショートドラマやイントロが非常に短い曲が増えている。このようになると、体に蓄積される情報量が増えるだけでなく体に入ってきた情報を思い出したり、考えたりする時間や余裕がなくなるから記憶力が低下してきた」と感じやすくなる。まとめ1番の理由は自分が「年を食った」からというのが理由だろう。昔見てたアニメを今見ても楽しめるか?

そこに読者とその読者の時代が組み合わさり、決して輪郭を失わないが、とても艶やかな錦織が生まれることになる。 時をかける少女 解説 江藤茂博


言葉の意味 意図 
対話は手段 
感情のベースが人それぞれ違う
意味が伝わるかどうかも分からない

回路もaiが手伝ってくれる
しかし知識と経験が必要

自分でコードを書く気持ち良さもある

肉体と心が求めること
社会、他人、肉体、感情に問いかける
何もかもが運動
練習の手触り
昔弾いたものを思い出す
練習も運動
何を表現したいのか思い出す
何がやりたいのか分からない

海外の日本語 独特のスペースがある 翻訳された文字

差別 身分の差 生きている実感
他人に怒られよう 嫌われよう
諦めることを諦める 肉体のうめきは漏れる

無知無関心という力、そして歴史の忘却


ドパガキ
思い出
感覚 匂い
言葉は記憶のなかに
印象は委ねられる あなたにきらわれても構わない 共感しません

話が伝わらない
共感できない

ということが増えた
自分のせいと思いつつ、
何も変わることが出来ない

それが当たり前になる
自分は初めからおかしかった
と認識する

相手のことを正しいと思わない
世間が言うことを見下す
軽蔑する インターネット
は最早現実と同化している 孤立させ合う
状況
インターネットで
可視化される

自分はそいう意味で価値がない
また現実の価値もない

でも自分はそうは思わない
価値があるとも思わない
何も思わない

他人の話を聞いても
何も思わない
興味持てない
面白くない
つまらなすぎて、面白い

インターネットや他人に
郷愁、感情は任せられない
納得出来ない 会話に共通項がない
ともすれば、
共感性もない。

それが性格だとしたら、それ以上の行動ができない

割り切りはしない
したら、つまらないから
 
キャバクラ幕府
全てが言葉に見える 仏教の都合の良さ 半導体は自然の模倣

 死も生もない 友よ ともに 


お金は力


自分が関わらない幸せを喜ぶ


「平和の境」とは、アイヌの口承文芸を記録した知里幸恵の著書『アイヌ神謡集』の序文に登場する有名な一節です。アイヌ民族の失われた自然豊かな暮らしと、急速な同化・開拓による過酷な運命の変転を嘆く叙情的な文章として知られています。 [1, 2, 3, 4]
全文は以下の通りです。
「平和の境、それも今は昔、夢は破れて幾十年、此の地は急速な変転をなし、山野は村に、村は町にと次第々々に開けてゆく。 太古ながらの自然の姿も何時の間にか影薄れて野辺に山辺に嬉々として暮してゐた多くの民の行方も又何處。」


さあ 乾杯しやう
乾杯しやうぢゃないか
人といふものどもに
善人も悪人も
いつの世も人は繰り返す
膿むには余りに長く
学ぶには余りに短い
時の螺旋状
だからこそ好く欲し
好く発するのだろう?

命など 陽と地と詩とで満たされるほどのものなのに 


2. 「不条理」とは何か [03:29新しいウィンドウで開く]


3. 不条理を生きるための「3つの帰結」 [06:36新しいウィンドウで開く]

不条理から逃げず、それを見つめ続けながら生きるために必要な態度として以下の3つが挙げられます。

  1. 反抗 ([00:06:58]): 不条理な状況に屈せず、対峙し続ける姿勢。

  2. 自由 ([00:07:35]): 未来の目的や既成概念の縛りから解き放たれ、今この瞬間の選択権を取り戻すこと。

  3. 情熱 ([00:08:14]): 生の「意味や質」ではなく「経験の量」を追求し、今この瞬間を精力的に生き抜くこと。


4. 不条理な精神を体現する例 [09:25新しいウィンドウで開く]

  • ドン・ファン ([00:09:39]): 永遠の愛という幻想を追わず、今目の前にいる存在との瞬間的な出会いを重ねる。

  • 俳優 ([00:10:26]): 舞台の切那の輝きに全てをかけ、消失していく命の中で多種多様な生を演じ尽くす。

  • 征服者 ([00:11:15]): 歴史的勝利ではなく、自らの意思で世界に反抗・行動し続けることに価値を見出す。

  • 創造(芸術) ([00:11:54]): 世界を解説・解決しようとせず、あるがままを描写して反抗の証とする。


5. シーシュポスの神話と結論 [13:34新しいウィンドウで開く]

  • 終わりのない徒労: 神々の罰により、山頂へ岩を押し上げては転がり落ちる作業を永遠に繰り返すシーシュポスは、人間の生の究極の比喩です [13:47新しいウィンドウで開く]。

  • 意識の目覚めと勝利: 岩が転がり落ち、ふもとへ降りていく瞬間、シーシュポスは自分の運命を完全に自覚しています [14:21新しいウィンドウで開く]。希望を持たないからこそ絶望することもなく、絶望的な運命を自らの意思で受け入れて押し上げ続けることで、運命を超越・反抗しています [14:54新しいウィンドウで開く]。

  • 結び: 世界が意味を与えてくれなくても、その不条理を直視して反抗し続けることの中に人間の真の尊厳があります [16:05新しいウィンドウで開く]。私たちは「シーシュポスは幸福であると想像しなければならない」のです [16:59新しいウィンドウで開く]。




名越氏自身の「不思議な体験談」

  • 幼稚園での記憶の空白: 兵士の「誰にも言えなかった体験」に共感し、名越氏自身も「幼稚園でお弁当を食べた後、気づいたら自宅で一人で横になっていた」という記憶と時間の不可解な体験談を披露します   知らないはずの世界にいるとか、そいう世界が僕たちの隣り合わせにいる 近しい人がいなくなると「じゃあ次の人呼びましょう」みたいな 諸行無常




生きること=苦痛を隠すこと、と言う刷り込み… 我慢するのが当たり前…みたいな。前提条件が違う部分があって、議論が進まないところもあるのかなと。
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子供の世界って本当に狭くて閉じててそのくせ時間経過が遅いんだよね 自分のときも誰かに外の世界の方が広いって教えてもらえたらよかったな…… でも死に損なう方法はたまたま教えてもらったから、死に損なって死ぬタイミング逃してうだうだしてるうちになんとか大人になって出口見つけられたよ あの時の誰だか知らん大人へ ありがと。


死は別れじゃない
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女性性だと経営者に向いてるかもしれませんね。受け入れて盛り上げていく。 楽しさを得るために1日でも早く自己充実感を得る。そのためのコミュニケーションがあり、雑談やら余白の左右にある「当たり前」を褒めるニュアンスが良い。自分が大きいと思う視点を探し、小さい視点は何かを探り、支えていく。小さい視点は物事のデメリット部分に存在しやすいと考える。これをより自然的にやるかが重要となる。 家族性、宗教性が大事だと思いますよ。 この動画の天使は戦略的ですね。 閃くことが好きだが、忘れやすいのが難しい一面。

曼荼羅的視点か。そうすると人間だけでなく生命全体視点、地球視点になるよな。地球環境を壊しながら経済成長を求める構造そのものが、全生命への暴力なのかもな。

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いつもの溜まり場がある人生はきっと豊かだろうな、と常々思っています。そんな場所を探して生きます。
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私もハッとしました😮 「中間領域」「中道」みたいな ゆるっと 考える 楽になりました😊
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働きたい場所が見つかるかも
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8:14 芸術学部出身です。 かつて学校の先生が「生活に芸術(文化)は不可欠」とお話しされていたことを思い出しました。 どれだけ熱心に働こうが、勉強しようが、我々は何のために生きるのか? ただ稼ぐだけ?ただ思考を持たず歯車を回すだけ? いいや違う、人間にとって最も大事なこと、「感じて生きること」をしないと死にながら生きているのも一緒、だと。 まさに名越先生が仰っているように「思考の幅を広げる」「世界を救う可能性だってあると気づくこと」の手伝いになるのですよね、文化や芸術って。 日本でも芸術に関する教育分野にもっと力が入れられれば、真に豊かな国に育つのにな、と思います。
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好きな漫画の台詞で、「嗜好品は生きていくのに必要はない。でも、それがあれば生きるのが楽になる。」っていうのがあって、芸術もそうだよな~と思います。 それを拠り所にしている人もいるし、それ自体が生きる理由になってる人もいる。 私は、そういうものに支えられて救われているので、造り出してくれる人達には感謝ですね。
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日本人は本来アートに向いてるんじゃないかと思いますね 内向的な人が多くて自己を見つめているから 自分はジャパニメーションなどのいわゆる二次元文化もアートと捉えているのですが、アーティスト達が独自のコミュニティに中でのびのびとやれたから、ここまで発達したんじゃないかな、と 実は文化産業の土壌としては結構成熟してると思います 例えばこのゲームは海外製ですが、日本発祥のアートの影響をモロに受けているわけです この日本独自のアートはある種の人々の精神を相当に救ったと思っています
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でも今の消費者の指向が時短とか意味を求めている感じがあるので、一見直ぐに役に立つように思えなく、鑑賞や理解に時間がかかる芸術等は人気が出にくいのかもしれません 映画でしたがじっくり見ずに何かの作業の合間とかはまだ良いのですが、映画を倍速で見たり、映画等で間を取ったりすると時間稼ぎだと思われたりするみたいですねぇ…楽しみかたが時代と共に変わってきたとも言われますが、映画好きとしてはさみしい物です…
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2年も前のコメツリーですがここの雰囲気が気に入ったので俺も意見を。 哲学者シャルルペパンは「人ななぜ美しい物に惹かれるのか」に対し「理性と情動のバランスがとれて脳≒心が休まるから」と言っています。また職場(人間関係)に必要なのは成長と共感と承認だと。これを芸術作品で言えば技巧が凝らされているのは成長、心温まるのは承認、他人と嗜好を同じくするのは共感です。出来れば有名な映画とか漫画とかで例えたいけど日本でこれをプレイしている世代にとって有名なものが何も思いつかないのでこのゲーム自体で言えば、心理探求が成長要素であり理性が働かされる、絵柄が嗜好に合う人同士は共感欲を満たせる(最悪ここのゲームの制作陣とプレイヤー1人だけでも良い)、承認はこのゲームが肌に合う人に提供される事、プレイヤーがこのゲームすげえって肯定する事です。心理理解は理性、共感と承認は情動、それらバランスが能力と嗜好にぴったり当てはまる人にとってこのゲームは「美しい芸術」です。名越先生もそれら三要素を多めに持っているからこそ人気があるのでしょう。 進化心理学者ロビンダンバーらは人類の親和性効果量を順に 道徳的価値観が同じ>宗教が同じ>音楽嗜好か同じ>政治思想が同じ>>>現在地が同じ>出身地が同じ>民族が同じ としました。クジラや犬や虫を食べる事についてどう思うかみたいな嗜好と倫理観なり、流行の歌や食べ物なりに対する価値観が近い人ほど仲良くなり、そうでない人とは相対黄に疎遠になります。 また好きな物事や人に接している時はエンドルフィンが分泌されます。人は一日平均三時間半を人付き合いに費やすのはそれを通してエンドルフィンの最もリスクの低い分泌をするためです。群れる動物としては生存と繁殖を有利にするために、他人と繋がる事を楽しいと感じ、孤立を苦しいと感じる必要があるので、他人との付き合いは基本的に楽しくエンドルフィン分泌出来る脳になっています。付き合い方にも効果の大小があって ボディタッチ>一緒に笑う>一緒に歌う>一緒に踊る>一緒に話を聴く>一緒に飲食する>一緒に宗教儀礼をする 教会などの礼拝所によってはこれら全ての要素を満たしているために、熱心な信者は礼拝所にエンドルフィン分泌を求めて通うのです。拝む対象がアッラーだろうがイエスだろうが天皇家だろうがそこには枝葉末節の違いしかないのは、食物繊維を摂るのにレタスでもキャベツでも白菜でも良いようなものですが、それら葉野菜のうちどれが好きかが芸術嗜好の違いと言え、同じ野菜を好む者同士で食事するのが最もエンドルフィン分泌効果が高いと言えます。 芸術作品には条件反射的に堪能できるものもあれば時間がかかる物もあるでしょう。異性に一目惚れするのは相手の容姿のセンスが自身の嗜好のツボに嵌って瞬間的に陶酔するほど満たされたから、映画は先述の「物語を聴く」に該当しやや時間のかかる陶酔道具、そして映画が存在しなかった時代は劇場なり宗教儀礼場まで何日もかけて行ってそれを見た事でしょう。映画の長さも相対的なものなので映画が無かった時代の人たちに言わせれば定速でも十分にファスト文化です。カップ麺は体に悪いから食うなと言って生麺を調理しようが、その場で小麦粉から麺を打つの出ない限り大差無いようなものです。そして打ち立て麺と生麺とインスタント麺のどれが好きかこそが(芸術)嗜好の違いです。 嗜好品が多ければ生きるのがラクになるのもエンドルフィンを分泌しまくれるからです。嫌いなものに囲まれてたらそれが不足して鬱にもなるし、同じ嗜好の人と繋がる事も出来にくくなるので二次的な意味でも脳に良くありません。このゲームで言えば攻略対象が四人ではなくモニカ一人だったらそもそもこのゲームやってないって人も大勢いたでしょう。四人のうち好きな攻略対象に接してる時が気分が良くなる、それは絵とセリフから妄想する人物像の嗜好が自身に合っているからです。適度に自分に似ていて、でも完全一致もしない。敵対もしないし同族嫌悪も強すぎもしない距離感が最も心地良い相手です。 よく「キリスト教が世界に広まったのは偶像で分かり易かったからだ」などと言う人がいますがそれは半分間違いです。まずプロテスタントや東方正教会は偶像に対して否定的です。また姿形が有る事は妄想を働かせ易いけど、その代償として妄想に天井を設けます。新しく出て来たアイドルに対して「この人はきっと性格が良くて趣味も自分と同じで、食べ物も自分と同じこしあん派で塩派だ」みたいな期待を存分にかけ、しばらくするとそのアイドルがsnsが「自分は釣りが趣味で粒あん派でタレ派です」みたいな具体的開示をする度にファンたちは「なんだ自分とは気が合わない人だった」とがっかりして離れて行きます。偶像崇拝禁止は信徒の神への妄想を最大限に膨らませる効果があるんです。伝統的宗教でも新興宗教でも同じです。そして妄想とは広義で言えば都合の良い思考です。例え自虐的な妄想であってもそれを本人が望んでいる事には変わり有りません。したい妄想をする事も立派にエンドルフィン分泌の手段であり、この視聴者も例えば自分が考えてる事と名越先生の考えが一致したら自分が肯定される気分に浸れるからそれを適度に期待・想像しているでしょう。芸術≒創造≒想像≒妄想です。そして人の脳は妄想や人付き合いなどのエンドルフィン分泌無しには精神的健康を保てないように出来ています。 日本はイングルハートウェルゼル世界文化地図上ではほぼ毎年世界一の世俗大国でいるからこそサブカル大国になっているんです。なぜその地位を占めるようになったかはもっと長くなるので略。世俗的とは普遍性の乏しい使い捨て文化である傾向が強いとも言えます。使い捨てが出来るというのは贅沢が許されると言う事であり、それを可能にしているのには例えば唯物的には食糧生産環境に恵まれている土地である事があります。 芸術って何? という問いに、ほとんどの人はただなんとなくの思い付きを返しますが、そうではなくて哲学上・脳科学上・心理学上・社会学上の体系的な答え方があるんです。なのに99%の人はそういう接し方をしようとせず、ただ漠然と自身の考えに固執し時にはそれを開示して承認や共感を求める、つまり成長要素は少なめで共感と承認が多め、それ自体が問いに対して各自なりに都合良く答えてエンドルフィンを分泌しやすくしている行為なのです。芸術とは何かにどう答えるかも実は理知的ではなくて、ほとんど各自の相対的な嗜好と情動のツボを晒し合う芸術行為と言えます。俺も勿論そうです。




そうだよな…みこちぐらいの年頃でだんだん、心に風が吹くんだよなぁ
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その風はいろいろな英傑の心にも吹いていた風だが 結局、その風を止める方法は、各々が見つけるしかなかったのだ。

アメリカでは音楽は理数系の分野にぶち込まれてますね。 ダンスを学ぶのにストレッチや肉体構造を学ぶのと同じで芸術もパターン化してますしトレーニングや基礎や傾向などは学んでよしとおもいます。


爬虫類用の生餌として数種類自家繁殖させてるけどレッドローチだけは匂いがキツくて扱いを止めた 逆にデュビアやミルワームは匂いも少なく体表面の油分も無く扱いやすい 虫を観察して思ったこと どんな虫にも家族がいて必死に生きてる、少なくとも俺よりは必死に生きてる、彼らは命を懸けて日々生きてる

横尾さんの人生観は、老子の「為学者日益、聞道者日損。損之又損以至於無為」のスタイルに似ていると思いました。学んだものを固執することなく捨て続ける。損のまた損。ついには目的を追うことも、結果を求めることもなくなる。そして飽きがやってくる。飽きれば次に移ればよい。すなわち飽きることは人生である。 「広大無辺の宇宙からインスピレーションを受け入れるのに、知識があってはダメである」とはいえ、横尾さんの著作はどれも面白いです。「私と直観と宇宙人」という著作では、横尾さんと金星人の交友がつづられていました。画家への転向が超常的な出来事の連続であったという話は納得です。 「絵を描くとき、頭の中にイメージを作ったり、言葉に置き換えてはいない。自分の中から描きたいものが(受動的に)出てくる。それが無意識。自分が(能動的に)描きたいものを描いているのではない。その無意識がキャンバスの中で形を表している」という話が、本動画の中で一番印象的でした。
私は伊藤さんの山田詠美さんの批評に感銘を受けました。 最近、人生とは、スポ根みたいなものだと感じます。 地獄のつかの間に休憩。 でも、私はそれほど不幸ではない。 ガツンとくる、批評を、初めて聞いた。

逃げは快楽か それもあるかもです 今思うと自分も逃げたことを思い出すね人間関係や仕事 人間関係は逃げて後悔してる 仕事はスッキリしたね。これが快楽かな? どっちにせよそこから人生がガラリと変わったんだよね 良くも悪くも。


逃げた先で待っているのはさらなる地獄であり、 地獄と戦い、幾分かの休息を愉しむ。それが人生です。
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コメントいただきありがとうございます。なかなかラディカルですね。しかし、同感でございます。逃げる瞬間はぶわっと楽しいんだけれども、どうあれ世の中、地獄なのだ、それはよくわかります。一滴だけ、楽しいこと、休息といえる瞬間があればそれでよいかという心持ちです……。
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逃げたら駄目、闘わなきゃダメなんてどちらも窮屈だな。自分の特性をよく弁えることこそが大事で、泳げないことがよく分かっているのなら、無理して川に飛び込む必要もないのでは。

昨今の推し活ブームを巡る混迷を目の当たりにすると、イスラムでの偶像崇拝禁止やブータンでは俳優が職業として禁止、かつての江戸幕府では歌舞伎等の芸能が弾圧された理由がよく分かります

『分かる』って事は『分かってない』という事実を『分かる』事から始まる。

昔見たアニメのセリフ 「世の中に飛び交っている情報ってものには、必ずベクトルがかかっているんだ。つまり誘導しようとしていたり、願望が含まれていたり、その情報の発信者の利益をはかる方向性が付加されている。それを差し引いてみれば、より本当の事実関係に近いものが見えてくる」 いまでもそう思う。


中学生の皆様、どうか高校受験で希望の高校にいけなくても、学力別クラス編成で上位のクラスにいけなくて自分と合った友人がいなくなっても、失望せず、人に対する感謝の気持ち、人に対する思いやりの気持ち、人に対する幸せを願う気持ちを忘れずに続けてください。 そして、どんな苦労や困難にも、めげずに戦って乗り越えてゆけば、人生必ず成功します。 どうか、この事を忘れず続けてください。


奥崎さんは商人だ、揉み手をして言葉も丁寧、商人は千利休、本居宣長、小津安二郎、等日本一級の知識人文化人を輩出する階級、日々鍛えられるんだろう、

人を蝕むのは病じゃなくて孤独なんだよね。親は自分より先に4ぬし兄弟だって他所で暮らしてたら年1回会えればいい方、孤独は慣れるもクソもない、人間は集団で生活する動物だからいつかどこかでチグハグが生まれて歯車が回らなくなる。
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集団の中で生きるからこそ、ふとした瞬間に心細さを感じてしまうのは自然なことかもしれませんね。

アホだよな 無へ向かうとは それじゃ2項対立から出られんぞ 空(有と無を包摂)へ向かえば良い

瞑想って〝する〟ものではないんだけどね。行為ではなく、状態のことをさすから。まぁ瞑想するって行為としてなにも考えない、とか空になるとか勘違いしている人いっぱいいるからね

深夜の人がいない所を散歩していると、稀に出くわすんです。___に。
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効率効率言ってくる人には、次の価値を作らせるのが良いよ
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